石鍋てるみです。
私が、保育園勤務だった頃
保育士が子どもに指導する場面で
よくみられた光景があります。
例えば、年長さんに
「先生がお話しする時には、
お口はチャックして、静かに聞きましょう」
と指導したとします。
その指導の瞬間、
あるいは、その保育士がその場にいる間は
頑張って、静かにしていますが、
しばらく時間が経ったり、
その保育士が部屋を出た途端に
すぐ、おしゃべりが始まってしまいます。
保育士の中には、
そういうときに声を荒げて
「静かにって言ったでしょ!」と叱る先生がいたりして
子どもたちはまた一瞬、静かになったりします。
そして、またうるさくなってします。
こんな状況が日常的に繰り返されます。
問題なのは保育士の中でこの子どもを
静かにさせることができる先生を
「指導力がある」と勘違いしている先生がいること。
自分自身がそれができる保育士は自信を持ち、
できない保育士よりも優秀であると勘違いします。
目の前の子がビシッとするから、
「私は指導力がある」と
勘違いしてしまうのは無理もありません。
なかなか、自分の言うことを聞いてくれない
保育士であれば「自分はダメなんだ」と
自信を失うのも当然でしょう。
でも、あることに気づいている保育士は
そんな表面的なことは問題視していません。
この状態が、決して指導ができている状態ではないと
見抜けているからです。
一見、指導力があると
評価されている先生のいないところでは
指導した内容が行動できない
子どもの姿を見れば
その保育士の指導は子どもに
「入っていない」ことになります。
この状況の子どもはその先生が
怖いから、注意されたくないから、
叱られたくないから、
大声出されたくないから、
嫌われたくないからその時だけ
静かにしただけなんです。
子どもは
「先生が話す時には静かに聞かなくてはいけない」と思って
自らを正したのではありません。
子どもが好ましい行動をとろうと
自分で考えて行動できるようには
根気よく伝えていくしかありません。
そこに気付いている保育士は
自分の指導方法を研究し
工夫することに集中できています。
『馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない
ベストセラーの『嫌われる勇気』に出てくる
イギリスのことわざです。
水を飲むかどうかを決めるのは馬である。
つまり、他人に対して働きかけることはできるが、
それを実行するかどうかは相手が決めることという意味です。
は馬ではありませんから、
脅したりすれば水を飲むかもしれません。
親や先生の前で水を口に含むところまでは
するかもしれません。
でも、みていないところで
吐き出しているかもしれません。
どうやって水を飲ませればいいのか。
喉が乾くのを待つのか、
喉を乾せるのか。
自身が必要性を感じるのを待つのか。
どこに水があるのかを
伝えておくということもあるかもしれません。
親や先生などは
子どもに好ましい行動を「させる」のではなく、
「動機づけをする」ことしかできません。
私はこの『嫌われる勇気』と言う本に出会って、
人間関係、特に親子関係において
ずいぶん気持ちが楽になりました。
親子であっても
他人をコントロールすることはできません。
そこが、腑に落ちることで
子どもの課題に介入せず
自分自身の行動に集中できたことで
育児の悩みも減ったように感じます。
まだ、読んでいないとしたら
ぜひ、読んでほしいと思います。